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魔法使いの夜感想

April 15, 2012

魔法使いの夜/感想

 『魔法使いの夜』、本編一周目を読了したので感想です。完全にネタバレで書いてますので、まだプレイ完了していない方はお気をつけください。

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●物語

 「森と現代文明」を両軸に取りながら、流麗に進んでいく物語でした。

 『TYPE-MOONエースvol.2』内の奈須きのこさんインタビューに、原本となった原作小説は、「なんのてらいもなくテーマを前面に押し出している」と語っておられる箇所が出てきます。『空の境界』後は基本娯楽エンタメで、テーマは深読みする読者にだけ伝わればよい的なスタンスなのだけど、原本『魔法使いの夜』の時は若かった、というようなニュアンスです。その辺りのテーマを押し出す感じは今回のリメイクでだいぶオブラードにくるむよう書き直した、とも続いていますが、その原液的直球テーマが、この部分の「現代文明への批評性」みたいな箇所だったのだろうと感じました。

 前半のクライマックス「魔法使いの夜」において、「森」側の主人公である草十郎が、ミラーハウスの中から見えた都市(現代文明)の空に、


 ……ああ、なんて醜い。
 こんなものを、これから一生見続けていく。



 ともらしてしまう所が好きです。人畜無害とか言われながら、誠実に現代文明に適応しようとしてきたけれど、どこかでそれらを醜いと感じていた自分に気づいてしまう。

 現実の話も持ち出すなら、これはドストエフスキーが万博を目撃した時に感じた絶望、ニーチェやハイデガーが転覆したいと願った科学技術文明と合理論に根差した現代文明の歪さ(この辺りの話は木田元の一連の反哲学の著作に個人的にはよっています)、それを、草十郎も感じ取ってしまっていた、という場面だと思います。

 交わらない三者三様の星の巡り、という話的には、青子は「近代」、有珠は「中世」、草十郎が「文明以前」、だと思いました。それぞれ、よって立つ思考基盤が違うので、交われるはずがない。キッチィーランドで青子と有珠がなぜ殺し合いにまでなるのかとも思うのですが、有珠にすれば、中世的な「魔術の秘匿」という条件は自身の存在意義でもあるわけです。劇中の様々な箇所で、草十郎的な文明以前の「森」の思想はもちろん、有珠がよって立つ「中世」的な価値観も、暴力的な「近代」資本文明によって押されているのが描写されています。

 ちなみに学問的には(というか新書とかに書いてある話ですが)、「中世」の存立基盤の方が宗教とか物語とかで、「近代」が何と言っても資本(お金)です。童話詠唱(物語)が主要魔術である有珠はもろに「中世」って感じですが、だとするならば有珠と青子の戦いは「中世VS近代」。背景になってるパラダイムが全然違います。やはり、そうそう相容れない部分があるのです。

 しかし、その戦いは、


 消費/消滅の理を担う、最新の魔法使い。


 のフレーズと共に青子の一応の勝利。近代の特徴は資本(お金)だと言いましたが、もう一つは何と言ってもそれに基づく「消費」です。

 そんな訳で、大まかに主要三人のバックボーンを並べてみるなら、


青子:近代、消費(資本)
有珠:中世、童話(物語)
草十郎:文明以前、肉体


 です。

 ロックが好き、買い物が好き、地下鉄(近代以降の産物)の音が好き、という青子はやっぱり消費とか近代に関して何かを担っている主人公で、有珠は童話と物語、そして草十郎は森であり、自分の肉体です。有珠が近代以降絶滅した鳥に想いを馳せる箇所がありますが、鳥(=肉体で飛ぶ)というのが、文明以前の比喩かと思います。だから、遊園地で肉体のみで飛んで見せた草十郎の姿に、有珠は目を奪われる。そんな三人が、英国の台頭から始まった(奈須作品で英国が重要なのはたぶんこのテーマのため。近代文明を大きく世界に広めた起点は、なんといっても英国)近代化の波の終着点として、東洋の果ての80年代末の日本、バブル末期の黄昏時に交差する。たいへん詩情的だと思います。近代の駆動音に乗せられて勃興し、そして競争に敗れて無残に消えていったレジャー施設。廃墟となったキッチィーランドが前半クライマックスの舞台とか、既に神感が漂っておりました。ファストフード店にすらピエロ(童話・物語)の浸食はある、というシーンが好き。全体的に遊園地戦は、青子の勝利に終わるものの有珠のターン。近代、確かに凄い。だが、そこにも至るところに、童話や物語がある。中世は、負けていない。

 そして、有珠以上に、特に青子と草十郎は、お互いがお互いに違うだけにお互いに惹かれ、また逆に認められない。

 青子が近代と消費で、草十郎が森と肉体だ、という話に、当然のように「自分」の問題がそこにからまって描かれます。例の現実の思想史で言う、「近代的自我」の問題です。大まかに言って、「近代」以降は個人の自己が強くなって競争になっていく。だから、凛とした自我を持ち自己を掲げていく青子は、自己が無い草十郎にいらだちを当初は感じてしまう。その自我に依拠しない素朴さこそが、近代人が忘れしまった真実性を含んでしまっているからこそ、自我に塗れた自分の醜さが否応なく突きつけられてしまう。逆に草十郎は、ラストバトル前の詠梨神父と草十郎の会話でかなり明示的に語られていた箇所ですが、自分に自我がないからこそ、凛とした自己(劇中の別の言葉で言うなら「心のカタチ」、「自分の色」)を掲げて進んでいく青子に羨望を抱いてしまっていた。

 さらに、近代以降の自我の目覚めは、必然的に競争、闘争に帰結していく。自分を貫くあまり、相容れないものは蹴落として、自分の目的にまい進していく。その近代以降の競争、闘争が、マクロには根源の渦を目指して競争する魔術師たちという比喩で描かれ、ミクロでは相容れない青子と橙子の闘争、という形で描かれます。

 ここまで背景が描きこまれた上で、近代消費世界、現代文明の歪さをあぶりだした上だからこそ、最終章の草十郎の二つの言葉、


 ――自分が、彼女(だれか)を助けたいんだ。

 と、

 人殺しはいけないことだ。


 が重みを持つ。

 自己を持てなかった人間が、ようやく到達できた自分の願い。それが、「青子を助けたい」という他者の希求だったということ。そんな人間だからこそ、近代以降の人間がしょうがない原理として受け入れてきた競争・闘争の末の敗者の退場に対して、「人殺しはいけない」という当たり前のお題目が言える、ということ。


●カーネーギ事件

 ここまでだけ書くと、なんか現代文明に関して批判的な話で終わるのかという感じですが、もちろんそういう偏った作品ではなかったです(「近代」っぽい青子が主人公なので当然と言えば当然ですが)。本編でも逆に現代文明を肯定するような要素も出てくるんですが、特に色濃くこの「現代文明の良さ」を描いていたと思うのが、幕間的な短編(途中でArciveに追加されるヤツ)「カーネーギ事件」です。魔術も魔法も、暴力も出てこない(唯架さんのは許容範囲で)、ちょっと良くないことが起こり、街の住人たちだけで補い合って解決する話。悪徳販売業者に騙される人たちという悲しいことに対して、魔術と関係ないただの学生でただの生徒会長の青子が、鳶丸が、久万梨が、教会関係とは関係ない唯架が、学校のもろもろの友人たちが、補い合って、あくまで普通の街に住む人間たちとして問題を解決する話。一瞬魔術戦のノリで暴力によって解決しようと傾きかける青子に言った鳶丸の言葉、「ここは法治国家」だからなるたけ法的に行こう、が好きでした。森は確かに素朴で素晴らしいかもしれない。だけど近代文明人が編み出した法治国家ナメんな。

 そんな訳で、被害者の会を作るとか、契約書を押さえるとか、非常に地味かつ堅実な方法で問題を解決。僕はこの話が一番好きかもしれない。

 その一連の騒動が終わった後の、鳶丸と草十郎の暮れゆく街を眺めながらの会話のシーンも良い。鳶丸が語っていたのは、「代わりがいるから逆にイイ」ということ。森、確かに素朴で幸福だった気がする。鳶丸自身も、相続争い(近代的自我に基づく競争・闘争)に巻き込まれてうんざりだ。でも、イイところもある。街自体が、森とは似たようなでも違うような別種の生態系だ。例えばバイトが辞めた、すぐ次のバイトの人が雇われて入る。なんだ、私には代わりがいたのか、と90年代作品(代表はやはり奈須さんも影響を受けたという『エヴァンゲリオン』)のように自己価値感の欠如で悩むのか? 違うと鳶丸は語る。見知らぬ他人が、自分の抜けた穴を補ってくれる、自分が、顔も知らないような他者を補うことができる、と、それが街は素晴らしいんだ、と。

 こっちが、むしろこの作品の解答くらいに感じました。交換、贈与、どちらの形にしても、森ほど閉じていない現代文明社会の街は、補い合いながら暮らしていくことができる。それぞれの自己が大きくなりすぎて競争、闘争に振れ過ぎる嫌な面もあるけれど、自己それぞれが自分にできることを交換したり、贈与したりしてみんなで生きていくことができる、これはやはり素晴らしい。歪で醜いことも多いけれど、何とか、この街の灯りを肯定してはいけまいか。

 明確には語られない有珠と草十郎が最初に出会ったシーン(お互いよく分かってない)に、解答が凝縮されている気がする。たぶんお腹が空いていた有珠に、着ぐるみを着て配達していた草十郎が、残りを分けて(贈与)あげた。道化的な出来事。でも、競争による奪い合いだけじゃないんだ。適材適所、欲するものがない人に、それを余分に持っていた人があげたり、交換したりもできる。それは、何やらとても素晴らしいものに思える。


●魔法

 「これはまだ日々の生活(じかん)が穏やかだった頃の風景。」という作品のキーワードはもちろんのこと、作中の様々な箇所で、印象的な久遠寺邸の時計が進む描写、時間の消費に関する風景(野球したり、一日かけて卒論の写しのバイトしたり、時間に関してのんびりと優しく、その大切さをあぶりだしていく)、バイトの設定(時間のお金への交換)などと「時間」に関して掘り下げてきて、ついに炸裂する第五魔法「青」が「時間」関係だったのにはやられたと思いました。

 時間の超克、とでも言えばいいのかな。単純なタイムリープ系じゃなくて、個人の時間を借りたり、それを使って自分の時間を進めたり、時間そのものを吹っ飛ばして、どこかの時間軸に置いて来たり、色々できるらしい。まさに、秩序は壊れ、カオスに。青子のロック好きまで伏線だったのか……。

 これだけ、ゆっくりと大切な穏やかな時間という一つの主題を描いてきながら、青子が10年分自分の時間を進めるという最終戦は不覚にも涙ぐむものがあったよ。そこでビジュアルが『月姫』とか『MELTY BLOOD』でお馴染みの赤髪のスーパー青子(「魔法使いの基礎音律」より)になるというメタ演出もイイ。『空の境界』や『Fate』で「永遠を超える一瞬」を描いてきた奈須作品的にも感じ入るものがありました。

 プレイ時間を表示せず、Archiveという本棚形式から本を取り出すようにして「読む」というのも「ゆっくりとした時間」演出なんでしょうね。細かく積み重ねていた要素と、クライマックスのメインネタ(魔法)の種明かしがシンクロしていて凄いと思いました。


●氷室冴子『雑居時代』との関連

 最後に、個人的に無類の氷室冴子作品好きとして、『雑居時代』との類似点などあげてみます。

 当初からコンセプトに「雑居」を押し出しており、『TYPE-MOONエースvol.3』では奈須さんが影響を受けたクリエイターの名前に氷室冴子をあげている点から、まず間違いなく『雑居時代』からある程度影響は受けてる作品だと思うのですが、細かい所でしみじみとしてしまいました。これも「時間」要素ですが、氷室先生が『雑居時代』の続編を書くことはもうないけれど、こうして最新の『雑居』物語が読めたことが感慨深いです。

 豪邸に女二人、男一人で雑居するという設定からして『雑居時代』なんですが、男が主夫的な役割を担う、とか、「お金」にまつわるコメディ調エピソードが起こる、とか、細かい所でその類似性(というか、一種の本歌取り的な表現なのかと思いますが)にニヤニヤしていました。上にあげた「カーネーギ事件」が凄い『雑居時代』っぽい(笑)。お金が発端でおこる愉快なショートコメディエピソードが、『雑居時代』にもあるのでした。TYPE-MOONのクリエイターさんたちにはもちろん、先人として氷室冴子先生にも敬意をば。





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realtanua at 20:45|Permalink twitterでつぶやく